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松戸市 MATSUDO CITY
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おうちで展覧会

更新日:2021年5月20日

このページでは松戸市教育委員会が過去におこなった展覧会で公開した作品や解説を一部掲載します。
動画で、画像で、ぜひお家でも展覧会をお楽しみください。

松戸のたからもの 松戸市の美術コレクション(2020年7月23日から8月30日)

1 展覧会について

会期

令和2年7月23日から8月30日

会場

松戸市立博物館(企画展示室)

主催

松戸市教育委員会

助成

自治総合センター

協力

新京成電鉄株式会社、北総鉄道株式会社、流鉄株式会社

松戸市の美術コレクションには大きく二つの柱があります。一つ目は、松戸に生まれた、あるいは住んだ作家に関するもの。二つ目は、かつて松戸にあった千葉大学工学部と、その前身である東京高等工芸学校に関するものです。この二つを柱に、現在まで約1600点の作品と2000点以上の資料を収取、保管し、調査研究した成果を展覧会などのかたちで皆さんにご紹介してきました。令和2年の夏に開催した「松戸のたからもの 松戸市の美術コレクション」では、松戸市がこれまで集めた多彩な美術コレクションのなかから18名の作家の作品104点を展示しました。公開した作品の一部や解説をこのページでもご紹介します。ぜひお家でも展覧会をお楽しみください。
展覧会ビジュアルデザイン:SHIMA ART & DESIGN STUDIO

2 会場の様子

3 作家と作品紹介

※作家名クリックで作家紹介に移ります。

松岡 壽(まつおか ひさし)1861-1944年

松岡壽は洋画家であり、長く日本の美術教育に携わった人物です。
1906 年から、松岡は東京工業学校(現東京工業大学)の工業図案科で絵画などを教えます。工業図案は現代でいうデザインの内容も含んでおり、明治期の日本では先駆的な学科でしたが、1914 年に突然廃止されます。この決定に温厚と評判だった松岡は大激怒。デザインを勉強できる場所が必要だと強く主張しました。当時の好景気も後押しし、1921 年、現在の千葉大学工学部である東京高等工芸学校が設立されました。設立当初、東京高等工芸学校は東京にありましたが、1945年の東京大空襲で校舎が焼失し、松戸市岩瀬に移ります。松岡の熱意が注がれたこの学校は、1964 年に西千葉に移転するまでの約20 年間、松戸において先進的なデザイン教育を行いました。
《海岸風景》は松岡がローマに留学していた22歳ごろに描かれたものとされます。小品ながらも松岡の実直な画風が伝わってきます。

トピック 「デザインの学校(東京高等工芸学校と千葉大学工学部)」(PDF:215KB)

田中 寅三(たなか とらぞう)1878-1961年

日陰の雛段に並べられた鉢植えの花々。
その先には日差しを浴びて作業をする人がいて、奥には白い温室が見えます。対角線で区切られた構図と明暗のコントラストにより、植物園の一角が魅力的に描かれた作品です。
田中寅三は、明治中期に清新な外光表現をフランスから持ち帰り近代日本洋画の基盤を築いた画家、黒田清輝と久米桂一郎に学びました。この作品を描いた1913 年、彼は35 歳で、小石川植物園内にあった東京帝国大学理学部の植物学教室に勤めていました。
彼が松戸の園芸学校(現千葉大学園芸学部)に来たのはこの翌年で、64 歳まで図画の指導を続けました。そのかたわら画家として活動し、松戸やその周辺の風景画も数多く残しています。

トピック「描かれた松戸ー園芸学校、古ヶ崎、矢切の渡しなどー」(PDF:275KB)

板倉 鼎(いたくら かなえ)1901-1929年

アパルトマンのバルコニーの前にテーブルを置き、金魚や花などを配した静物画を、板倉鼎はパリ留学中によく描きました。学生時代に習得した写実的画法を捨ててつかみ取った、シンプルな構成による新しいスタイルの絵画でした。そして窓外には野原や川、空などの風景を配し、現実にはない別世界を創出しました。
静物画のテーブルをベッドに換え、金魚鉢と花瓶を傍らに寄せて、横たわる妻の須美子を描いたこの作品は、1928 年から最晩年となる1929 年にかけて連作された赤衣の須美子像の1 点です。バルコニーの向こうには、須美子が好んで描いた「ベル・ホノルル」の明るい海が広がり、中央に白いヨットが配されています。
鼎の書簡によれば、この時期彼はサロン・デ・チュイルリーという展覧会を目指して制作に励んでいますが、それがこの作品であると思われます。3 年間のパリ留学における静物、風景、肖像の研鑽の成果が集約された大画面の力作です。

板倉 須美子(いたくら すみこ)1908-1934年

板倉須美子は夫・鼎の留学に同行して2 年目の1927 年に、パリで油彩画を始めました。美術教育を受けたことのなかった須美子でしたが、太平洋航路でフランスに渡る前に4 か月ほど滞在したハワイでの経験に想像を交え、自由な絵を描きました。素朴で楽しげな異郷の世界はフランスで高く評価されました。
この作品は、1929 年にベルギーのブリュッセルで開催された仏蘭西日本美術家協会展に出品されました。現存が確認されている「ベル・ホノルル」シリーズの中で、この「12」は最も若い番号です。

トピック「板倉鼎・須美子の書簡」(PDF:237KB)

森谷 延雄(もりや のぶお)1893-1927年

―もし三々九度の盃を載せるあの朱色の台で食事をとったら一体どんな気持ちがするだろうか―
森谷延雄『小さき室内美術』1926年より

森谷延雄は1920 年に欧米に留学。イギリス、フランスなどで西洋の家具や模様を研究し、帰国後、東京高等工芸学校木材工芸科の助教授となります。
《朱の食堂》は1925 年の国民美術協会第11回展覧会で発表されたモデルルームの一つです。発表された家具は朱塗の盃台からヒントを得たとされますが、施されたハート、クローバーなどの模様や植物の装飾は西洋由来のものです。
東洋と西洋の要素が優れたバランス感覚によって融合され、ロマンチックな雰囲気を作りだしています。

トピック「森谷延雄の家具」(PDF:231KB)

奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう)1907-1981年

奥山儀八郎の作風は彼の行動に伴って生涯に何度か大きく変容しました。昭和初年、ニッケ(日本毛織)の広告版画家として出発した彼の粗削りで奔放なスタイルのポスターは大きな反響を呼びますが、1941 年には広告制作をやめ、伝統版画の世界に入ります。ニッケの最後の時期に制作されたこのポスターには浮世絵技法の「ぼかし」が上空に入れられ、変容の過程が示されています。
この作品について奥山は、大正から昭和初期にかけて活躍した映画俳優の岡田時彦(1903ー1934)がモデルだとご家族に語っていたそうです(奥山雪氏より聴取 2020年6月29日)。制作当時岡田はすでに亡くなっていますから、ハンチング帽と背広を身につけて都会の街並を見下ろす男性は、彼の亡霊なのかも知れません。早世したスターへの哀悼が温かみのある手描きの線ににじむ、どこかノスタルジックな作品です。

トピック「奥山儀八郎の生涯と奥山義人氏の仕事」(PDF:253KB)

剣持 勇(けんもち いさむ)1912-1971年

1964 年、東京オリンピックを契機として国立屋内総合競技場が建築家丹下健三設計によって建てられました。《ペンダントライト》は、競技場貴賓室前の廊下に設置されていました。金属のアームとプラスチックでできた三角形のパーツの組み合わせは無機質で、洗練された印象を与えます。
剣持勇は戦後の日本を代表するプロダクトデザイナーです。東京高等工芸学校卒業後、国立のデザイン指導機関である工芸指導所に入所し、デザインや産業技術についての研究を行いました。1933 年、剣持は工芸指導所においてドイツ人デザイナー、ブルーノ・タウトに出会い、モダンデザインに対する認識を深めます。その後、「ジャパニーズ・モダン(日本近代調)」を提唱し、日本人の生活や工業、手工芸から生まれる「日本の優れたもの」の生産を目指しました。

トピック「剣持勇と丹下健三」(PDF:238KB)

大橋 正(おおはし ただし)1916-1998年

1957 年、明治製菓は板チョコ、「明治ミルクチョコレートデラックス」の改良にともない、パッケージを一新します。デザインを任されたグラフィックデザイナー亀倉雄策は、当時チョコレートの包み紙のほとんどが茶色であったのに対し、金色の縞模様地の斬新なデザインを打ち出しました。
亀倉のデザインをベースに大橋正によって製作されたのがこのポスターです。パッケージを大胆に活用した構図と大橋ならではの愛らしいキャラクターが人目を惹きます。大橋は1950 年代から70 年代の長きにわたって明治製菓の仕事を請け負いました。商品のパッケージからポスター、新聞広告まで、幅広く明治製菓の広告に携わり、企業のブランディングにも参加しています。大橋のデザインは時代を超えても色あせず、今見ても古さを感じさせません。

トピック「グラフィックデザイナー大橋正」(PDF:210KB)

及川 修次(おいかわ しゅうじ)1922-2018年

利根川の源流に近い群馬県みなかみ町の山深い小さな一軒家に、写真家は何度も通って撮影を続けました。
秋の日差しを浴びて、茅葺き屋根の家のまわりには花々が咲き乱れています。また別の年の晩秋に同じアングルで撮影された作品には、「山手からの湧き水が、カポカポ、ポコポコと、やさしい音をたてながら流れていた。家の土間で胡桃割りをしていた中島さんの姿がほうふつされる」とコメントが添えられています。行ったこともないのになぜか懐かしさをおぼえる、ユートピアのような光景です。家の中に入り、囲炉裏端で談笑する老夫婦や、筵の跡が刻まれ、すり減った草鞋が置かれた土間の一角をとらえた作品もあります。
利根川流域の質素で勤勉な人々の暮らしに深い共感をもって寄り添い、写し取った及川の写真は、いつの間にか失われてしまった日本人の姿を思い出させてくれます。

長田 国夫(ながた くにお)1911-1994年

矢切の葱畑に取材した作品です。曇天の下、畝に列をなして植えつけられたたくさんの葱が青々とした葉を広げ、何かただならぬエネルギーを発しています。画家は葱たちの姿に、管理社会の中で自由を奪われ、苦しみあえぐ人間の集団を投影しているのでしょうか。
長田国夫は20 歳ごろから絵画制作を始め、写実的な作品が文展などに入選しています。戦後は美術教師を長く務め、その間の作品はわずかしか残っていませんが、定年後、講師として指導を続けながら制作を再開します。作風は戦前から大きく変化し、ゴッホやルオーを思わせる激しい筆遣いにより表現主義的な作品を描きました。
少年時代から呉の海軍工廠に勤務し、広島の原爆を身近に経験した長田は、
反戦のメッセージを伝える作品をも残しています。

トピック「長田国夫の《原爆ドーム》と《戦艦大和回想》」(PDF:265KB)

トピック「戦後の松戸の作家たち」(PDF:266KB)

4 松戸の美術年表、松戸美術マップ

5 小冊子のご案内

展覧会会期中、無料で配布した小冊子をご希望の方にお渡ししております。(別途送料必要)詳細は展覧会図録等販売のごあんないをご覧ください。

小冊子


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生涯学習部 文化財保存活用課

千葉県松戸市千駄堀671 松戸市立博物館内
電話番号:047-382-5570 FAX:047-384-8194

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