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平成12年度から平成14年度まで

更新日:2013年11月25日

平成15年3月8日から5月5日まで

【企画展】戸定歴史館企画展 現代かな書の最高峰 藤岡保子 展

 藤岡保子(1883年から1966年)は現代かな書の最高の書き手の一人と識者から賞賛された書家です。
戸定歴史館では、徳川昭武(15代将軍慶喜実弟)の姪(めい)であり、松戸徳川家にゆかりの深い彼女の展覧会を開催します。
 藤岡保子は明治16年、昭武の実兄である土屋挙直(しげなお)の4女として生まれました。祖父は水戸藩主・徳川斉昭、祖母は昭武の生母でもある万里小路睦子(までのこうじちかこ)です。
 40歳を過ぎてから、彼女は書の道に志を立てました。書に巧みであった祖母の影響もあったと伝えられています。創作の範囲はかな書だけではなく、漆工、染色、絵画などの分野にまで及びました。特定の師につくことなく寝食を忘れて研鑚に励み、ついには、現在の皇后陛下に書をご進講する栄にまで、浴しました。
 今回の展示では、藤岡保子と徳川家の関係を紹介し、ご遺族の皆様方のご協力をいただき、ほとんどが初公開となる藤岡保子の作品と、終生彼女が大切にしていた松戸徳川家ゆかりの遺品を紹介した。

主な出品作品

藤岡保子遺品

「徳川慶喜年賀状(徳川昭武宛)」

藤岡保子作

「蒔(まき)絵箱」(上写真)
「染色額」

藤岡保子書

「源氏帖」

藤岡保子所用筆、硯(すずり)等

「誠こめて…」(藤岡保子座右の銘)

平成14年12月21日から平成15年2月23日まで

【通常展】徳川写真館part4徳川家の写真アルバム

 徳川家には何冊ものアルバムが所蔵されています。1867年、パリ万博の時に徳川昭武が持ち帰ったもの、彼自身が撮影したアルバム、かつての戸定邸の姿を伝えるもの…。
今回の展示では、徳川家の多彩なアルバムの世界を紹介した。

平成14年9月14日から12月1日まで

【通常展】戸定邸での調度

 松戸徳川家に伝来し、日々の生活で使われ、戸定邸に彩りを加えていた屏風、掛け軸、漆工品などを展示した。

平成14年6月29日から9月1日まで

【夏期展】徳川昭武の生涯 小中学生のための歴史展示

 徳川昭武は、いまから149年前、水戸に生まれました。名前のとおり、江戸幕府将軍の一族です。幕府の滅亡まで14年、アメリカ合衆国の使者・ペリーが黒船でやって来た年に当たります。昭武は兄が将軍になったこともあり、将来を大いに期待され、大切に育てられました。ところが、江戸幕府滅亡から明治維新に至る激動の時代を、滅びゆく側の人間として生きることになるのです。
 松戸の戸定は、昭武が住んだ土地です。戸定邸はそのお屋敷でした。若くして隠居した昭武の生きた証しが、そのまま残されている唯一の場所、それがここ、戸定といえましょう。
 今回は、波瀾万丈の昭武の生涯を、わかりやすく、展示してみました。会場には、小中学生の方向けのワークシートも用意してあります。お楽しみいただければ幸いです。

昭武の衣装

1 幕末の動乱と昭武

 後の戸定邸の主人・徳川昭武は、嘉永6年(1853年)、9代目水戸藩主・徳川斉昭の18番目の男子として生まれました。
 嘉永6年といえば、アメリカの使節・ペリーの艦隊が日本の開国を求めて浦賀沖(今の神奈川県)に姿を現した年です。この後、時代は幕末の動乱をへて、江戸幕府の滅亡、明治維新にいたります。水戸徳川家という将軍家を支える家に生まれ、後に将軍となる慶喜を兄に持った昭武は、時代の流れにいやおうなく巻き込まれたのです。

禁門の変錦絵

禁門の変錦絵 (日本外史之内)
小林清親筆 明治15年2月 藤洋文庫蔵

2 西洋との出会い

 慶応3年(1867年)、フランスと友好関係にあった幕府は、パリで開かれる万国博覧会(万博)に参加することになりました。万国博覧会とは、世界中から産業や文化に関する品物を集め、一般の人々に見てもらう催しです。
 将軍の慶喜は、自分の代理として昭武をこの万博に出席させます。万博終了後も、昭武は慶喜の命令でフランスにとどまり、勉強に励(はげ)みました。次の将軍候補者として昭武は兄の期待を一身に背負っていたのです。

3 幕府の滅亡と昭武の帰国

 昭武がフランス滞在中、日本は大変な状況を迎えていました。慶喜が将軍を辞職し、政治の権限を天皇に返上したのです(大政奉還)。さらに、慶喜は天皇をかつぐ薩摩藩との戦争に敗れ、朝敵(天皇に反逆する者)にされてしまいます。
 昭武が急ぎ帰国したとき、すでに慶喜は新政府に降伏していました。昭武は新政府から蝦夷地(今の北海道)で抵抗を続ける幕府家臣・榎本武揚の討伐を命じられます。ところが、榎本には首領として期待を寄せられてもいたのです。

幕府の滅亡と昭武の帰国

4 明治維新と昭武

 明治維新は昭武の人生を大きく変えました。幕府の滅亡によって次の将軍候補者としての将来を失い、さらに明治4年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)では水戸藩の統治の権限までも失ったのです。
 天皇を支える華族として明治という新しい時代を生きることとなった昭武は、陸軍勤務、フィラデルフィア万博(ばんぱく)の御用掛をへた後、2度目のフランス留学(りゅうがく)に旅立ちます。帰国後は麝香間祗候(決められた日に天皇を訪ねて質問に答えるという職)に任じられました。

明治維新と昭武

5 隠居後の日々

 明治16年(1883年)、妻を失った後、昭武は甥の篤敬に水戸徳川家を譲って隠居します。そして、翌年には母親の万里小路睦子(秋庭)とともに、ここ松戸へ移り住むことになるのです。
 その後、昭武は斉藤八重と入籍し、男女6人の子をもうけます。そのうち次男の武定は、父の功績により子爵を授けられました。
 また、昭武は篤敬の死後、水戸徳川家を継いだ圀順の父親がわりとなり、自分の娘たちも水戸徳川家の子として育てました。

隠居後の日々

6 趣味のライバル・慶喜と昭武

 慶喜は新政府に降伏した後、静岡で隠居生活を送ります。このころの慶喜は趣味に熱中していました。昭武もたびたび兄を訪問し、一緒に狩猟を楽しんでいます。
 明治30年(1897年)に慶喜が東京に移住すると、2人はともに狩猟や撮影に出かけることが多くなります。兄弟であるとともに趣味のライバルでもあったのです。
 それでは、2人の趣味の世界と、明治の風景をのぞいてみましょう。

趣味のライバル・慶喜と昭武1

7 昭武の死

 明治41年(1908年)、釣りに出かけた昭武は帰りがけに血尿を出し、順天堂病院に入院します。腎臓の病気でした。幸いにも手術は成功し、その後の経過も順調で、病院内でもたくさんの写真を撮っています。
 ところが、翌年末頃から体調を崩すことが多くなり、明治43年7月24日、ついに息をひきとります。55才でした。瑞龍山(今の茨城県ひたち常陸太田市)の水戸徳川家の墓地に葬られた昭武は、今もふるさと水戸を見守っているのです。

昭武の死に関する資料

平成14年4月20日から6月16日まで

【通常展】幕末視覚の変革者・島霞谷展

 わが国の油絵、写真、活字の黎明期、幕府開成所で先駆的な活躍をした島霞谷。130年間、土蔵の中で大切に保管されていた彼の遺品を一堂に展示します。視覚の変革期の様相を現代に蘇らせる彼の作品の数々をご覧ください。

平成14年3月2日から4月7日まで

【企画展】松岡壽とその時代

展覧会の趣旨

 松岡壽(まつおかひさし・文久2年~昭和19年)は明治期を代表する日本の洋画家の一人ですが、同時にその後半生では、日本のデザイン振興に大きな業績を残しました。大正10年に創立された東京高等工芸学校の初代校長に就任し、この学校の基礎を固めた功績は日本のデザイン関係者に広く語り伝えられています。

 本市では、地域の美術史のテーマとしてこの東京高等工芸学校の調査を進める中で、松岡壽の伝存資料の調査研究を行ってきました。松岡の次女西川弘子氏はこの調査に惜しみない援助をしてくださいましたが、平成9年に亡くなられ、死後、本市に作品7点と関連資料約1200点が寄贈されました。さらに、平成11年に3点の絵画が寄贈されたので、これを顕彰するため展覧会を開催します。

展示の様子

アプローチ

 「本を読む少女」(手前)は松岡の次女弘子(後、西川姓)がモデルで、その寄贈品が今回の展示の核となっている。

油絵

 ローマ留学時代から帰国後の肖像画を中心とした代表作が並んでいる。古典的な美意識に基づいた温和な写実は像主を生き生きと描き出している。

松岡壽の画室

 晩年を過ごした逗子の画室で使われていた書斎机、携帯画板、教え子たちから贈られた記念品も展示され、作家の人柄に触れることができる。

主な展示作品

 本展は明治初期から昭和期にわたる松岡の息の長い画業を作品と資料とによってたどります。また、松岡と直接の師弟ではないものの、教員からこよなく敬愛された松岡校長の姿を浮き彫りにするため、本市所蔵品の中から、同校の教員たちの作品を同時に展観します。

 また、本展では松岡の出身地である岡山県の岡山県立美術館と共同して、互いの所蔵作品を交換展示し展示内容をより豊かなものとすることとしました。これからの時代に相応しい地域からの新たな文化発信の第一歩にしたいと思います。

〔松岡壽作品〕

「スケッチブック」(明治9年)
「ピエトロミカの服装の男」(明治14年、岡山県立美術館蔵)
「海岸風景」(明治16年)
「子守」(明治24年)
「老翁像」(明治28年、岡山県立美術館蔵)
「奥津風景」(明治41年)
「箱根早雲山」(明治41年)
「銚子の夕映え」(明治41年)
「仁徳天皇」(大正7年、岡山県立美術館蔵)
「自画像」(昭和3年)
「強羅観光旅館に於いて」(昭和7年)
「バラ」(昭和8年)

〔資料〕

「工部美術学校フォンタネージ送別写真」(明治11年)
「王立ローマ美術学校成績証」(明治18年)
「第4回内国勧業博覧会妙技賞牌」(明治28年)
「東京高等工業学校校舎」
「博覧会倶楽部第一回総会記念写真」(昭和1年)
畑正吉「聖徳絵画館記念メダル」(昭和11年)
〔同時代作家〕
川路新吉郎「工部大学校風景」(明治11年)
高橋由一「小林更平像」(明治初期)

〔東京高等工芸学校教員作品〕

寺畑助之丞「くれゆく頃」(大正12年)
蔵田周忠「秩父三峰山」(大正15年)
和田香苗「雪の東京高等工芸学校正門」(昭和7年)
久米福衛「安田祿造肖像」(昭和16年)
畑正吉「木檜恕一像」(昭和24年)

作品紹介


逗子の風景(昭和14年)

関連行事

-平成14年3月9日に終了しました-

松戸市教育委員会・明治美術学会主催
松岡壽生誕140年記念シンポジウム

特別協力 岡山県立美術館

社会教育課 美術館準備室 電話:047-366-7463

平成14年1月29日から2月21日まで

【通常展】徳川家の肖像

ごあいさつ

 写真を趣味としていた徳川昭武(1853年‐1910年)の手元には、幕末に撮影した肖像写真、明治時代になって、自らが撮影した写真等、膨大な数の写真が集積されていました。

 今回の展覧会では、これらの中から肖像写真に焦点を当て、徳川昭武(あきたけ)と交流のあった徳川家の人々を紹介します。

 一枚の肖像写真には、様々な情報が焼き付けられています。当時の人々の容貌、表情、服装、ポーズ、持ち物、背景。それらは、現在とは異なる時代を生きた人々の姿を伝えるばかりでなく、当時の社会のあり方までも語りかけてくれるでしょう。

 展示している写真は、すべて当時のオリジナルプリントです。複写写真では味わうことの出来ない、味わいをご堪能いただければと思います。

 展覧会の開催に際しましては、資料所蔵者の松戸徳川家当主・徳川文武様、展示資料を寄贈していただきました堀内和夫様のご協力を頂戴いたしました。厚く御礼を申し上げます。

松戸市戸定歴史館

展示内容

第1章 徳川昭武の生涯

 戸定邸(とじょうてい)の主人である徳川昭武は、9代目水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の十八男として、嘉永6年(1853年)に生まれました。この年、ペリー艦隊が浦賀沖に姿をあらわし、以降日本は近代化への道を歩んでいきます。そして、57年におよぶ昭武の生涯もまた時代の波にほんろう翻弄されることとなります。禁裏守衛(きんりしゅえい)のための上京、パリ万博への列席、水戸藩主就任、再度のフランス留学、麝香間伺候(じゃこうのましこう)拝命…。ここでは、主に肖像写真によってその波乱の生涯をたどります。

第2章 昭武の家族たち

 明治8年(1875年)、昭武は公家の娘・中院瑛子(なかのいんえいこ)と結婚し、8年後には長女・昭子が誕生しました。しかし、間もなく瑛子は病没。失意の昭武は甥の篤敬(あつよし)に水戸徳川家当主の座を譲り、生母・万里小路睦子(までのこうじちかこ)とともに、ここ松戸の地に移り住みました。その後、昭武は旧幕臣の娘・斉藤八重との間に、三男(武麿・武定・武雄)三女(政子・直子・温子)をもうけています。松戸徳川家に数多く残る家族の写真の中には、昭武自身が撮影したものもあります。ここでは、その一部を紹介します。

第3章 兄慶喜というひと

 徳川慶喜(よしのぶ)は天保8年(1837年)、水戸藩主・徳川斉昭の7男として生まれました。昭武とは16歳違いの異母兄弟で二人は非常に仲の良い兄弟でした。慶喜は将軍継嗣争いに巻き込まれて以来、将軍後見職(こうけんしょく)、禁裏守衛総督、将軍と立場を変えながらも常に政局の中枢に立たされました。結果、朝敵(ちょうてき)の汚名を着せられ、名誉回復には実に30年以上もの歳月を要したのです。その間、彼は静岡で趣味に興じ、政治には一切かかわりませんでした。ここでは、昭武の兄慶喜を紹介します。

第4章 慶喜の家族たち

 慶喜は安政2年(1855年)、公家一条忠香(ただか)の養女・美賀(みか)と結婚、2年後に一女をもうけますが早世してしまいます。幕末の動乱の中で多忙な慶喜には、その後しばらく家庭を顧みる余裕はありませんでした。彼にその時間が与えられたのは、維新後のことです。そして、2人の側室との間に十男十一女をもうけます。男子は早世したものを除き、いずれも名家を継いで華族に列せられ、女子は皇族、華族のもとに嫁ぎました。ここでは、その慶喜の家族を紹介します。

第5章 徳川家の人々

 幕末、徳川の姓を名乗ることのできる家は、7家しかありませんでした。将軍家と尾張・紀伊・水戸の御三家、田安・一橋・清水の御三卿(ごさんきょう)です。御三家、御三卿は将軍家に男子がない場合、後継者を出しうる家柄でした。江戸時代の徳川姓は特別な存在だったのです。
 明治時代になると、徳川家は為政者の立場から明治国家を支える華族という立場になります。新しい社会の中で、徳川家の人々の交流も続いていきます。ここでは、昭武ゆかりの徳川一族の人々を家別に紹介します。

第6章 普段着の昭武

 昭武は多彩な趣味の持ち主でした。若くして隠居した昭武はその後の人生を趣味人として生きました。昭武は古くから武士のたしなみとしてあった弓や狩猟のほかにも、写真や自転車といった新しい趣味も開拓していきました。幼き日にフランスに渡った昭武は、すすんで生活のなかに西洋的な要素を取り入れていったのです。そして、これらの趣味を通じて、慶喜や徳川達道(さとみち・一橋家11代)等と交流を深めていきました。ここでは、昭武の多彩な趣味の一端を写真と文書類で紹介します。

平成13年4月1日から6月10日まで

【通常展】戸定邸を巡る人々

 松戸徳川家に伝来した書画、工芸、日用品などには、人と人との繋がりによって昭武の手元にもたらされた物が多く見られます。今回の展示では、物の背後に潜む人間関係を紹介しながら、徳川家所蔵品を展観します。

平成13年4月1日から6月10日まで

  • 展示導入部

 かつての戸定邸の門への道への写真パネル、戸定邸を訪れた昭武の一族の集合写真、明治の戸定邸の写真を展示しています。

  • 徳川昭武肖像と書

 今回の展示の主人公である徳川昭武の油絵の肖像。昭武没後に描かれたと推定される。右側の書は昭武が1867年にヨーロッパ巡歴中に認めたもの。

  • 徳川慶喜肖像と書

 展示のもう一人の主人公である昭武の実兄で最後の将軍である徳川慶喜の肖像と彼の書を展示。

  • 戸定邸ゆかりの人の写真

 明治時代に撮影された戸定邸を巡る人々の写真を展示。

  • 和田三造筆牧場の晩帰下絵

 戸定邸内に飾られていた和田三造筆の油絵「牧場の晩帰」の下絵。彼は、水戸徳川家の牧場に11ケ月間こもり、この絵を仕上げた。

  • 徳川斉昭書画他

 昭武の父で水戸藩9代藩主、徳川斉昭の書画や田安徳川家当主・徳川達孝が書いた「東照公御遺訓」。

  • 源氏物語図屏風他

 藤原広長筆「源氏物語図屏風」、昭武所用陣笠、陣羽織、直垂など。

  • 有栖川宮家伝来品など

 中央の堆朱の菓子盆は、有栖川宮幟仁親王遺品。その右の文箱は水戸徳川家からのお譲り品。

  • 昭武とパリ万博

 一番最後のコーナには、昭武の人生にとって最大のハイライトである1867年パリ万博に関する資料を展示。手前の肖像は、ジャポニスムの画家として名高いジェームス・ティソが描いた昭武の肖像。

平成12年12月23日から平成13年2月18日

【通常展】徳川写真館 part3

ごあいさつ

 この度、戸定歴史館では、第3回目となる「徳川写真館part3」を開催します。
 幕末から明治にかけて、写真を愛好していた徳川昭武の手元には、膨大な数の写真が集積されていきました。自分自身で撮影した写真、各徳川家で昭武と同じく写真を愛好していた人たちが撮影した写真、一族の肖像写真などです。
 今回の展示では、昭武の親族にあたる徳川一門の人々の肖像写真を多く展示しています。撮影したのは、わが国最初の乾板写真の撮影に成功し、「早撮り(はやどり)写真師」の異名をとった江崎礼二、皇室御用達の写真師である小川一真(かずま)、丸木利陽(りよう)など、当時の超一流の写真師達です。表情、服装、ポーズ、撮影のセット、照明などに、明治の徳川家の雰囲気を感じ取っていただければ幸いです。
 展覧会の開催に際しましては、松戸徳川家当主徳川文武様から貴重な古写真をご提供いただきました。厚く御礼を申し上げます。

昭武の家族

 戸定邸には、主・昭武(あきたけ)の他に、彼の生母秋庭(しゅうてい:万里小路睦子(までのこうじちかこ)・水戸9代藩主徳川斉昭側室)、長女の昭子、次女政子、長男武麿(たけまろ:夭折)、嫡男となった次男武定(たけさだ)、三女直子、四女温子(はるこ)、三男武雄(夭折)らの子供達の他に、政子以下の子供の生母斉藤八重(やえ)が暮らしていました。
 昭武の妻、瑛子は戸定邸が完成する前年の明治16年に亡くなったため、戸定邸では生活していません。
 昭武は水戸家11代の当主であったため、水戸徳川家の人々も家族ということができますが、ここでは、戸定邸で生活していた人の写真を展示しています。

昭武の親族

 このコーナーでは、水戸徳川家、徳川慶喜家、一橋徳川家、田安徳川家など昭武の親族にあたる人々の写真を紹介します。
 当時の婚姻は、極力親族の中で行うようにしていたため、歴史的にも、血縁的にも、一門の人々の関係は非常に親密でした。
 さらに、当時は養子縁組も盛んに行われていたため、彼らの関係は複雑に入り組んだものとなっています。展示室に掲示してある系図と見比べていただければ、徳川家の人々が如何に強く結びついていたのかと言うことがご理解いただけると思います。

写真絵葉書

 徳川家の人々には、昭武の様に写真を愛好する人が多く、撮影した写真を手製の写真絵葉書にして、相互に送り合っていました。ここでは、その現物を展示しています。

最古の戸定邸写真

 戸定邸が初めて撮影されたのは、明治22年5月4日。撮影者は、当時一流の写真師であった江崎礼二でした。
 この日、戸定邸は初めての慶喜の訪問を受け賑わいを見せていました。江崎礼二は竣工間もない戸定邸やそこに集う人々の記念写真を撮影したのです。
 展示室の写真で、右手前から3枚が江崎礼二の撮影した写真です。今から112年ほど前の戸定邸の原風景をぜひご覧下さい。

戸定邸航空写真

 貴重な戦前の航空写真。昭和12年に撮影ました。戸定邸や戸定邸を含む当時の松戸町の様子が航空写真ならではの角度で一望することが出来ます。

平成12年10月5日から12月10日まで

【企画展】徳川慶喜の明治

 明治維新後の徳川慶喜は、その後46年間の長い人生を私人として送ります。知られざる慶喜の明治を徳川家秘蔵の遺品の数々に探ります。

  • 1 徳川慶喜肖像

 手前が写真を元にして描かれた慶喜の肖像画。その奥が慶喜の実父・水戸9代藩主徳川斉昭(ナリアキ)。慶喜の肖像は、爵服を着用しているので、彼の公爵時代(明治35年~明治43年)であることが分かります。さらに、この肖像が彼の嫡男慶久(ヨシヒサ)の同型の肖像とセットであることを考え合わせると、この肖像は慶喜の隠居、慶久の家督相続を記念してのものではなかったかと思われる。

  • 2 慶喜の父母の書

 左の書「文武」は慶喜の父斉昭の書、右の扇面は母吉子(ヨシコ)が所有していたもので、徳川昭武の実母万里小路睦子に贈呈された。扇面の文字は吉子の筆になる。更に、その右のケース内には、斉昭から慶喜に当てた書翰をまとめた「烈公御真翰」が展示される。「烈公御真翰は」126通からなり、一橋徳川家に養子に入った慶喜に対し、斉昭が帝王学を授ける内容となっている。慶喜は、終生、自分は水戸家出身であるという意識を強く持ち続け、父への敬慕の念が強かったが、この思いは父から慶喜へと与えられたこの様な書翰によって醸成されていったのである。なお、「烈公御真翰」の翻刻は戸定歴史館によってなされ、その解説と共に集英社から『父より慶喜殿へ』(大庭邦彦著)として出版されている。

  • 3 慶喜の油絵・写真画・写真

 壁面に掛けられている額には慶喜筆の油絵を、その前の台には慶喜が用いていた洋風画(「写真画」と名付けられています)を展示しています。
 幕末にはわが国に写真や西洋画が到来し、慶喜の生きた時代は日本人の視覚が大きく変貌を遂げた時代でした。慶喜自身も、日本人として早い時期に油絵や洋風画を描きました。手ほどきをしたのは、旧幕府開成所(幕府の洋学研究・教育機関)にいた中島鍬次郎でした。慶喜の遺品からは、まだ日本に油絵や西洋画が到来して間もない時期、日本人が油絵や西洋画との取り組みの様子が窺えるばかりではなく、幕末において、最高の水準を誇っていた幕府開成所での油絵や西洋画研究の様相を垣間見ることが出来ます。

  • 4 慶喜所用単衣、慶喜筆扁額

 手前の単衣は慶喜が着用していたもの。その奥の扁額は慶喜が弟昭武の邸宅「戸定邸」の完成を祝って、明治17年6月に昭武に贈ったものです。文字の「山高水長」とは、人格が高潔で澄んでいることを意味しています。この文字には、兄が弟の人格を称えると共に、小高い丘の上に立ち、眼前に江戸川が流れている戸定邸の実景のイメージも込められているのではないかと思われます。

  • 5 慶喜日用品

 慶喜が日頃使用していた茶碗、汁碗、お箸、虫眼鏡、そろばん、物差し、スタンプなどの日用品を展示しています。

  • 6 慶喜撮影オリジナルプリント

 慶喜が明治になって、自分自身で写真撮影に熱中したことは、これまでの当館の展示で度々取り上げてきました。今回の展示では、保存上の必要から通常は展示されない慶喜撮影のオリジナルプリントを展示しています。この機会に、ぜひ本物の写真をご覧下さい。

  • 7 新発見の徳川慶喜・昭武他記念写真

 新たに発見された慶喜らの記念写真です。この様な集合写真としては、もっとも晩年に撮影されたもので、撮影年代は明治41年、慶喜72才の時のものです。この写真は、同年に慶喜が勲一等旭日大綬章を贈られたことを記念して撮影されたのではないのかと思われます。
 この写真は、昨年、堀内和夫氏から戸定歴史館に寄贈されたものです。

平成12年4月29日から7月9日まで

【通常展】大名華族の暮らし松戸徳川家の調度品から

 画面向かって左側から「徳川斉昭肖像(斉昭画賛)」、徳川斉昭書、徳川昭武書、徳川慶喜書。

 「源氏物語図屏風」(藤原広長画)。六曲一双の内の右隻。紙本著色。大和絵を得意とした土佐派の画系に属する江戸後期の画家・藤原広長(板谷桂意)の屏風。明治44年に水戸徳川家から松戸徳川家に譲られた。正統的な筆法で、謹厳な描線を引き、金箔に砂子、野毛、切り泊などをちりばめた華麗でありながら落ち着きのある画面が構成されている。

 手前は「牧場の晩帰」の習作(和田三造)。奥は「群羊図」(高橋勝蔵画)。「牧場の晩帰」は和田三造が茨城県高萩市にあった水戸徳川家の牧場に11ヶ月程こもり仕上げた作品。白馬会十周年記念展(明治38年)に出品され、白馬会賞を受賞した和田の出世作。「群羊図」はアメリカへの留学作家として知られる高橋の数少ない作品。共に、戸定邸内に飾られていた。純和風の邸宅に本格的な油絵の組み合わせが面白い。

 会場内の覗きケースには黒漆塗り金蒔絵の葵紋付きの調度品も展示されている。

 徳川昭武肖像入り金時計。スイスの大統領から昭武に贈られた。裏蓋には昭武の精密な肖像が描かれ、それに向き合う様な形でフランス語の献辞が刻まれている。1ミリに9本もの密度で施された彫金技術には驚かされる。

 画面向かって左側から徳川昭武がヨーロッパから持ち帰った晴雨計、双眼鏡(べっこう製)、「勝利者!!!」(メーヌ作・ブロンズ)。「勝利者!!!」は昭武が日本名誉総領事フリュリ・エラールから贈られたもので、わが国にもたらされた本格的なブロンズの内でも、最初期に属するものだろう。

 会場内には1867年のパリ万国博覧会の写真も一部展示されている。左側はメインパビリオンを気球から撮影したもの。右側は会場内展示風景。

 会場入り口垂れ幕

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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