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夏季展 坂川・江戸川水景色【2019年会期終了】

更新日:2019年9月25日

開催期間 令和元年7月20日(土曜)から9月23日(祝日) ※終了しました。

 明治17年、戸定邸を建てて松戸へ移り住んだ徳川昭武は、写真撮影に熱中しました。たびたび松戸の町や、馬橋、小金などに出かけ、自ら写真を撮っています。この地域に暮らす人々の日常が切り取られた写真は、当時の自然環境や生活様式を伝える貴重な歴史資料でもあります。昭武の目に映った松戸を、古写真を通して紹介します。

展示構成

プロローグ 徳川昭武と写真(児童用解説) ※会場展示には読みがながふってあります)

 徳川昭武は、13歳で将軍である兄・慶喜の代わりにヨーロッパを訪問し、留学生活をしました。彼は、日本とはまったく違う西洋文化を体験しています。最新の機械を使った写真撮影もその一つでした。昭武が渡欧した1867年頃は、パリ市内のにぎやかな場所に写真館がいくつもあって、王様や貴族、お金持ちの間で記念写真や肖像写真がはやっていました。
 その後、昭武のまわりの人で最初に写真撮影を始めたのは、昭武の後に水戸徳川家の当主になった甥・篤敬だと考えられます。篤敬は昭武と2才違いで、一緒にヨーロッパ旅行をするほど仲良しでした。篤敬のほかの親戚や友達も写真撮影を趣味にしてみんなで楽しんでいました。

江戸川
 江戸川は、東京と千葉を分ける境界であると同時に、川に接する地域をつなぐ水路でもありました。昭武をはじめとした松戸ゆかりの写真愛好家たちは、戸外に遊び、行き交う船や、ゆったりと流れる川、眼の前に広がるのどかな景色を好んでカメラにおさめました。
 戸定邸や庭園からは江戸川、眼下の松戸と対岸の街並み、遠くには富士山を見晴らすことができます。昭武もこの見晴らしを日々楽しんだことでしょう。

松戸宿

 松戸宿は、江戸幕府の中心地である大都市・江戸と、水戸徳川家が治める水戸とを結ぶ街道「水戸道中」3つ目の宿場町で、江戸川のほとりにある交通の要衝でした。旅人は、宿場町で食事をとったり宿泊したりして、川を渡る船が出るまでの時間を調整しました。松戸は、対岸の金町関所との深い関わりの中で発展したのです。

坂川

 坂川は、流山市から松戸市北部を経て江戸川へと流れる川で、流域に暮らす人々の生活に深く関わってきました。
 徳川昭武は、趣味のカメラで、坂川の風景を数多く撮影しています。時には、兄の慶喜が同行したこともありました。昭武は、松戸をはじめとした水郷の風景を好んで撮影しました。彼が舶来の高価なカメラで切り取ったのは、川と共に暮らす人々の生活や松戸の雰囲気そのものでした。昭武がいなければ伝わることのなかったかけがえのない情景です。

古ヶ崎(児童用解説) ※会場展示には読みがながふってあります

 古ヶ崎はいくつかの川の合流地点になっています。明治時代末から大正時代にかけて農業が発展しました。現在の古ヶ崎中学校、川の一理塚があるあたりには、明治時代、池がありました。昭武は古ヶ崎の池を気に入って、何度も家族や使用人を連れて釣りや写真撮影をしに来ていました。
 この地域では、洪水の被害を減らし、きれいな水を流すために、坂川の修理がたくさん行われました。新坂川は、昭和に入って新しく作られた川です。排水機場という場所では、洪水の時、ポンプを使って余分な水を江戸川に流します。

コーナー展示 「昭武の目線」 ・「現在の松戸」 (児童用解説) 
※会場展示には読みがながふってあります)

 徳川昭武が撮影した写真は、「楽しいから撮影した」というだけの写真ではないところがあります。 昭武は、父・徳川斉昭から「お百姓さんが農業を、漁師さんが漁業をしてくれているから、みんなが生活できるということを忘れてはいけません」と教わっていました。その考えがあったからこそ、昭武は松戸に暮らす人たちの、ふだんの生活を写真に撮ってみたかったのではないでしょうか。昭武は、お父さんの教えを伝える農人形という置物をとても大切にしていました。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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