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松戸に住んだ幻の将軍徳川昭武

更新日:2013年11月25日

幻の将軍 徳川昭武

<解説>松戸市戸定歴史館学芸員 斉藤洋一

 四季折々に美しい表情を見せる戸定が丘歴史公園。ここはもと松戸徳川家の敷地を歴史公園として整備したものです。公園内には最後の水戸藩主・徳川昭武(あきたけ)が建設した戸定邸が、今も明治の姿そのままに保存されています。

全国から見学者を迎える戸定が丘歴史公園の魅力の秘密を探ってみることにしましょう。

徳川昭武について

徳川昭武

徳川昭武(1853年‐1910年)

 最後の水戸藩主。水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)の18男で、最後の将軍徳川慶喜の実弟にあたる。1867年、数えで14才の時、将軍慶喜の名代としてパリ万博に派遣され、その後、ヨーロッパ各国を歴訪。明治維新によりパリでの留学生活を中断して帰国、最後の水戸藩主となる。明治17年には、戸定邸を建てて移り住んだ。狩猟、写真撮影、自転車、製陶など多彩でハイカラな趣味の持ち主でもあった。

その一 徳川昭武の生きた時代

 一八五三年、浦賀にペリーの乗る黒船が来航し、開国を要求します。二百年以上にわたり外国との交際を拒絶する鎖国を続けていたわが国は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。巨大な船体に、大砲を装備した圧倒的な軍事力の前に、当時の幕府は対抗するすべを持たなかったからです。
 これから、明治維新までの十五年間、外からの圧力を契機として国際化、近代化をめぐる激動の時代が始まります。
 徳川昭武は、ちょうどこの年に生まれました。父は水戸藩九代藩主徳川斉昭(なりあき)、十六歳年上の兄には後に最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)がいました。大名家、それも徳川御三家の一つである水戸徳川家に生まれた昭武は、幼い時から中央政局の渦の中に巻き込まれていくことになります。
 一八六四年、昭武が数え年で十二歳の時、彼は京都へと上京します。三百人の水戸藩兵を率い、京都御所を警備するためでした。当時の政治の中心は、江戸から朝廷のある京都へと移っていました。もちろん、まだ少年に過ぎない昭武に難しい政局の判断などできるはずもありません。しかし、自らの意志とは無関係に、御三家の子どもとしての役割を、昭武は果たさなければならなかったのです。

その二 一八六七年パリ万博

 一八六七年、フランスのパリで万国博覧会が開かれることになりました。世界各国から膨大な出品物を集めて開かれた世紀の大イベントに、我が国も初めて参加をすることになりました。フランスの皇帝ナポレオン三世は日本の将軍にもパリ訪問を要請しましたが、混迷の度を加える複雑なわが国の政局の中では、長期間将軍が日本を留守にすることは不可能でした。
 そこで慶喜は、弟昭武を将軍の代わりに派遣することにしました。この時十四歳の少年昭武は、日本を代表する将軍の名代としてパリへと旅立つことになったのです。さらに、慶喜は昭武に対し、万博終了後、パリでの長期留学も命じていました。自分の後継者にと昭武のことを見込んでいた慶喜は、昭武が次代の指導者としてふさわしい最新の知識をパリで身に付けてくることを期待していたのです。

『昭武がパリ万博のために渡欧するに際して着用した、緋羅紗地三葉葵紋陣羽織』

 このときの万博には、わが国からもたくさんの品物が送られました。そこには、ありとあらゆる日本の産物をパリで紹介しようという意図がうかがわれます。当時のヨーロッパから見れば、遠い極東の島国である日本のことはほとんど知られていませんでした。多数の入場者を迎えたこの博覧会場で、わが国は、初めて国際社会にデビューしたとも言えるでしょう。この万博は、後に本格的に勃興するヨーロッパでの日本愛好熱「ジャポニスム」の大きな契機となるのです。また、昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら、当時最高の知的エリートたちからなる使節団の人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになるのです。

 昭武は、各国の国王・皇帝らと交わり、遠く日本を離れたパリでの国際交流の最前線に身を置きます。万博の主要行事終了後には、さらにヨーロッパ各国を歴訪、国際交流の先駆者としての役割を果たすのです。

その三 幻の将軍

 昭武のヨーロッパ訪問は、当地でどのように受け止められたのでしょうか。イギリスの絵入り新聞で昭武は、「プリンス・トクガワ」として大きく紹介されています。
 記事は次のようなものでした。
 昭武は将軍慶喜の弟にあたり、将軍の寵愛も深い。現将軍には子どもがなく、昭武は日本独特のシステムの中で、将軍を出し得る家の一つである清水徳川家の当主でもあるので、次期将軍となる請求権をかなり持っている(大意)。
 記事中で、「王子」という意味の「プリンス」という言葉を選んでいるのも、昭武が次期将軍の有力候補であるとの認識を物語るものでしょう。

 では、慶喜の意図はどうだったのでしょうか。慶喜が会津藩主に語った内容を記録したものによると、慶喜は徳川一門の中で、自分の後継者たり得るのは昭武しかいないと語っています。そのためにも、会津松平家への養子入りが決まっていた昭武を、将軍を出し得る家、清水徳川家へとなかば強引に養子入りさせた上で、パリへと送り出したのでした。
 しかし、一八六八年、昭武の運命は大きく変化することになります。兄の期待にこたえるべく、パリでの留学生活を送っていた昭武に、幕府崩壊の知らせが届くのです。さらに、前将軍の弟がフランスにいることによる不測の事態を恐れた新政府からは、矢のような帰国の催促が舞い込みます。乏しい情報の中、留学を続けるか帰国か、昭武は難しい判断を迫られます。最終的に帰国を決断した昭武は、帰国後、最後の水戸藩主に就任することになります。昭武が十六歳の時のことでした。

その四 昭武と戸定邸

 昭武の日記によると、彼は明治八年(一八七五年)正月、狩猟のため松戸を訪れています。案内人をたてていることから見て、この時の昭武はそれほど松戸の地理に詳しくなかったものと考えられます。以後彼は、頻繁に松戸を訪れるようになりました。彼は明治十五年三月、松戸に彼専用の住まいの建設を始めました。翌十六年に水戸家の家督を甥に譲り隠居となり、十七年四月に戸定邸を完成させました。

 眼下に江戸川、遠くに富士を望む小高い岡の上に建つ戸定邸は、今や明治期の旧大名家の和様の邸宅としては全国的にも数少ない貴重なものです。意図的に装飾を廃し、最高級の杉の柾目材がふんだんに使われた戸定邸は、質実剛健の水戸徳川家の遺風を今に伝えています。客間の前には、起伏のある芝生に丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式の庭園が広がっています。

 部屋数が二十以上もあり、迷路のように廊下が伸びる戸定邸ですが、生活空間としては、当時の言葉でいうところの「表」と「奥」に明確に区分されていました。表とは、来客者用のスペース、奥は家族と使用人のためのスペースです。多数の部屋が連なる邸宅は、旧大名家の生活様式を反映したものだったのです。

 戸定邸には、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、東宮時代の大正天皇などが訪れるなど、華族の交流の場としても使われました。

その五 明治の松戸の記録者

 戸定邸建設後も、昭武は明治天皇のそば近くに仕える麝香間伺候という公職についていたため、定期的に皇居へ行かなければなりませんでした。その時は都内の水戸徳川家本邸を使用し、アウトドアライフを楽しむときには戸定邸を使っていたのです。

 狩猟、自転車、魚釣り、焼き物など多彩な趣味の持ち主であった昭武は、戸定邸での生活を存分に楽しんだことでしょう。中でも松戸にとって大切なものとなっているのは、昭武が撮影した明治時代の松戸の写真の数々です。

 昭武は明治三十六年から本格的に写真撮影に取り組むようになります。撮影枚数は、およそ千五百枚以上にも及びました。まだカメラが高価なもので、技術的にも撮影が難しかった当時、写真撮影を楽しむことができたのは、昭武のような旧大名家や富豪層などのごく一部の人々に限られていました。

 昭武が小さな印画紙に記録してくれたのは、豊かな自然と巧みに共生する人々の姿であり、着ているものは質素でも、生命の躍動にあふれる子供たちの姿でした。それは、私たちが忘れかけている松戸の原風景といっていいでしょう。詳細な文字による撮影記録と共に、これらは忘れがたい松戸の記憶となったのです。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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