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令和3年度特別展3「明治日本の国際化ー徳川昭武と渋沢栄一の到達点」 終了しました

更新日:2022年5月19日

1868年に帰国した徳川昭武と渋沢栄一 その後をご紹介

展覧会概要

 明治時代、日本では国際化が加速していく中、外国との交渉にあたり、有能な元幕臣や関係者が明治政府に採用されて最前線で活躍するようになりました。徳川昭武は政府に所属しませんでしたが、1867年パリ万博の経験を買われ、1876年のフィラデルフィア万博へ派遣され、アメリカ各地へ赴いた当時の様子を書き残しています。また、若くして海外経験のある昭武はさらに若い世代にとっての助言者としての立場にあり、かつて幕府も目指した国際化に貢献したと考えることもできるでしょう。
 上記の内容をふまえ、徳川昭武をはじめ、徳川慶喜、渋沢榮一の後半生を中心に、国際化という新しい視点で彼らの足跡をたどります。 

会期詳細 

令和3年(2021年)11月20日(土曜)から令和4年(2022年)5月8日(日曜)まで

展示詳細

第1章 帰国と最後の水戸藩主就任  

 明治政府の帰国命令を受け入れた昭武は、帰国前に最後のフランス旅行を楽しみました。皇帝一家に別れの挨拶をしてフランスの地を離れた昭武は、明治元年11月3日(1868年12月16日)神奈川に到着、同日23日(1869年1月5日)、東京城と名前を変えた旧江戸城で、1歳年上の明治天皇に拝謁し、帰国の挨拶をしました。昭武はヨーロッパで得た知識や情報を天皇に伝え、歴史の表舞台から退場していったのです。

 水戸藩主となった昭武は、藩内抗争で分裂し混乱の中にあった藩をまとめようと尽力しました。藩の事業として北海道開拓に着手し、昭武自ら北海道の現地に足を運び、視察をしています。版籍奉還で領地を朝廷に返還した後は、藩知事という身分になり、廃藩置県まで務め上げました。

第2章 フィラデルフィア万博参加と二次留学

 廃藩置県後、一華族となった昭武は、明治7年(1874年)に陸軍少尉に任じられ、軍人としての道を歩み始めていました。ところが明治9年(1876年)、アメリカ独立100周年を記念したフィラデルフィア万国博覧会へ、御用掛(ごようがかり)として派遣されることになったのです。8か月間のアメリカ滞在中、昭武は、万博参加のほか、鉄道での大陸横断、軍事施設や都市の視察、観光旅行などを楽しみました。万博閉幕後、昭武は日本へ帰国することなく10年ぶりに渡仏し、その後4年半に及ぶヨーロッパ留学を開始しました。彼は遊学に近い自由な海外生活を送り、パリやロンドンの在留日本人との交流を深めました。この時築いた人脈は、昭武の後半生を支える柱となるのです。

 明治8年(1875年)には、水戸徳川家への行幸がありました。徳川家一門の邸宅を天皇が訪れるのは、維新後初でした。明治天皇は光圀(みつくに)、斉昭(なりあき)の勤王の志を称える形をとりつつ、水戸徳川家出身の元将軍・慶喜への和解の意思を間接的に示したのです。

第3章 人脈の要 ―広がる私的ネットワーク

 明治14年(1881年)6月に帰国した昭武は、同年12月に麝香間祗候(注釈1)を拝命し、明治天皇に定期的に拝謁する立場となりました。また、仏学会(注釈2)の主要メンバーとして、日仏交流に貢献しました。隠居の翌年(明治17/1884年)以降、戸定邸に生活の拠点を移した昭武は、一部を除き、公的な活動から離れます。一方で、ナポレオン3世皇后ウージェニーとの交流を支えたかつての留学仲間「多勃都会」、シーボルトなど外国人との文通、狩猟や猟犬に関連した伊達家との交流など、私的なネットワークで育まれた豊かな人間関係は広がっていきました。

 昭武は徳川家一門の人脈の要でもありました。兄・慶喜の良き理解者として、親族や皇族との調整役として、親を早くに亡くした甥たちの後見人として、円滑な交流を陰で支えていたのです。さらに自身の兄弟姉妹の家政運営の相談に乗るなど、人望があったことをうかがわせる記録が残っています。
(注釈1)国家の顧問。皇居内の麝香の間に伺候し、天皇の相手をする特別職。
(注釈2)日本での公的な日仏交流組織。

第4章 慶喜・昭武・栄一の交流

 渋沢栄一が経済界・社会事業で華々しく活躍する一方、昭武と慶喜は趣味を楽しむ静かな暮らしを続けました。慶喜は明治30年(1897年)に長年過ごした静岡から東京へと住まいを移し、翌年には有栖川宮威仁(たけひと)親王の計らいで明治天皇に拝謁し、実質的な名誉回復を果たしました。明治33年(1900年)、慶喜は、昭武と同じ麝香間祗候(じゃこうのま しこう)となり、同35年(1902年)の公爵授爵によって公的にも名誉を回復したのです。

 昭武と栄一の関係は、慶喜を加えて明治以降も続きました。慶喜は明治22年(1889年)以降、松戸に計50日も滞在し、昭武と一緒に狩猟、釣り、写真撮影を楽しんでいます。栄一は戸定邸を訪れたことはありませんが、昭武とは、東京で慶喜を交えて3人で会うなど交流が続いていました。

エピローグ 昭武と栄一 ―そして、次代へ

 昭武と栄一のつながりは、子どもたちの時代になっても続きました。昭武と、栄一の二男・篤二(とくじ)は、写真が共通の趣味でした。明治41年(1908年)8月に、篤二は従兄・元治(もとじ)と共に避暑先に滞在していた昭武を訪問し、昭武はこの2人の写真を撮影しています。また、渋沢邸を訪ねた昭武の二男・武定は、栄一から幕末の頃の話を聞き、その際、栄一から記念の書を贈られています。

 栄一は、維新史料編纂会において幕末当時の談話を行い、徳川慶喜の正確な伝記『徳川慶喜公傳』の編纂を主導するなど、歴史の証言者として積極的に活動しました。対照的に、昭武は、歴史に関する証言を一切残しませんでした。しかし、昭武の子孫である松戸徳川家の人たちが守り残した品々が、歴史資料として多くの人に時代の情報を伝えることになったのです。

 

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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