旧徳川昭武庭園復元記念展 「いま甦る明治の庭」
更新日:2018年8月27日
旧徳川昭武庭園復元記念展「いま甦る明治の庭」
会期:平成30年1月20日(土曜)から7月1日(日曜)まで【会期延長しました】
平成30年春、約2年に及んだ復元工事が完了する予定です。この過程で、徳川昭武が構想した戸定邸庭園の姿が明らかになりました。東西のコウヤマキとアオギリの木立や失われていた東屋は明治の姿を再現したものです。復元に基礎となった古写真や文書などにより、昭武が思い描いた夢の庭の真実に迫ります。
戸定邸庭園東屋(1901年 徳川厚 撮影)
展示構成
プロローグ 名園との出会い
徳川昭武は御三家の水戸徳川家に生まれました。同家には小石川後楽園や偕楽園などの庭園があり、彼は幼い頃からこれらの名園に親しんでいたと思われます。昭武は13歳のとき、兄である将軍・慶喜の名代として渡欧しました。彼は寄港地や巡歴各国で、最高峰の庭園を目にします。維新後、昭武はアメリカやヨーロッパに5年間滞在し、やはり多くの庭園を訪れました。
昭武は和と洋、ふたつの異なった庭園文化を自らのものとしたのです。
1.戸定邸庭園の造成
29歳で隠居した昭武は、その前年より戸定邸の建設を始めました。邸宅の建設がひと段落すると、彼は本格的に作庭に取り組みました。昭武は自ら植樹するアオギリやコウヤマキなどの樹木の下見に行き、樹木の並びにこだわるなど、積極的に庭作りに関与しました。そして、西洋庭園を基本にしつつ、他に類例のない独自の庭園を作り上げたのです。
庭園は隣接地の購入や売却、あるいは建物の増築に伴い、幾度かの変遷を経て、現代にまで受け継がれました。
2.庭園に遊ぶ
戸定邸庭園は、座って眺めるだけではなく、江戸時代の大名庭園と同様、接客・社交・饗応の場でもありました。芝生では、ボール遊びや、剣舞などが行われ、花見などの催しの際には、来客に対し食事が振る舞われています。また、昭武が主宰する窯では戸定焼という陶磁器が製作され、贈答に用いられました。庭園は昭武や慶喜など、写真を趣味とする徳川家の人々の被写体として好まれ、多くの写真が伝わりました。
3.庭園の復元と考証
130年の間に、戸定邸庭園には多くの変化がありました。復元工事では、昭武が完成させた当時の姿に戻すために、発掘と考証が行われました。考証に重要な役割を果たしたのが、昭武や徳川家の人々が遺した写真や文字史料です。
工事では、芝生面を10センチメートル下げ、園路や飛び石を再現しました。さらに、東屋を地形とともに復元しました。昭武が創り上げた絶景が甦ります。
現在の景観
【明治期】戸定邸からコウヤマキ(南南東)を望む