黒鉄(くろがね)ヒロシ戸定ギャラリー
幕末から明治へ 激動の時代を駆け抜けた 徳川昭武・慶喜兄弟
終生に渡り、深い交流を持った徳川昭武・慶喜兄弟の人生の軌跡を黒鉄ヒロシ氏のイラストで紹介します。慶喜に彼の後継者にとまで期待された昭武がヨーロッパで体験したもう一つの明治維新。維新後の静かで厳しい生活。心温まる二人だけのこころの交わり。独自の世界を切り開き、「黒鉄歴画」と称される黒鉄ヒロシ氏のイラストで、知られざる二人の維新秘話をご鑑賞下さい。
(文:斉藤洋一)
第一章 1867年パリ万博 幻の600万ドル借款
1867年パリ万国博覧会に、時の将軍慶喜は弟・徳川昭武(1853年‐1910年)を派遣しました。
各国元首が集う、万博という国際舞台において、膨大な出品物により日本国の存在を示し、同時に次期将軍の有力候補である昭武を派遣することにより、日本国の主権は幕府にあるということを明らかにしようとしたのです。
その最大の目的は、600万ドル借款を実現させることにありました。根本的な幕政改革を時と競うように進めていた慶喜は、その資金として600万ドル(約450万両)という巨額の資金をどうしても調達する必要があったのです。
しかし、この借款は幻に終わります。慶喜の幕府復興の起死回生策はフランスの外交政策の変更と共についえたのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第二章 幻の葵勲章 国際社会の洗礼
1867年のパリ万博には幕府の外に、薩摩藩、佐賀藩、江戸の商人清水卯三郎が出品をしました。
特に、薩摩藩は幕府に先行して周到な準備を進めていました。日本国が幕府の一元的支配下にあるのではなく、諸藩により分割統治されているという印象を与えることにより、幕府権威の失墜を狙っていたのです。
そのための有効な武器となったのが、薩摩勲章です。薩摩藩は一方的にこの勲章を各国関係者に与え、外交的得点を稼いだのです。
これに危機感を抱いた幕府は、急きょ、幕府の勲章である「徳川葵勲章」の製作準備を進めました。しかし、この勲章は完成することなく明治維新を迎え、幻の勲章となったのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第三章 プリンス・トクガワ 昭武の欧州歴訪
パリ万博の主要行事終了後、昭武一行は、幕府との条約締結国を歴訪しました。国と国のトップが直接会うことによって、これからの友好関係を深めるためでした。
幕府の外国奉行、向山隼人正(むこうやまはやとのしょう)を全権公使とする一行はフランスを出発。スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスの各国で昭武は各国国王らと会見、初の首脳外交を繰り広げたのです。
訪問を受けた各国の新聞は、昭武の来訪を報道しました。イギリスの絵入り新聞ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュースでは、「プリンス・トクガワ」として精巧な彼の肖像を掲載。現将軍(慶喜)には子供が無く、昭武が慶喜の寵愛厚い弟であり、将軍を出しうる家、清水徳川家の当主でもあるので、次期将軍の有力候補だと詳しく報じたのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第四章 幻の16代将軍 思いがけぬ帰国
パリ万博への派遣が決定する前に、14代将軍家茂の命により、昭武は会津松平家への養子入りが決まっていました。しかし、自分の後継者たりうる人物はは昭武しかいないという慶喜の判断により、昭武は将軍を出しうる家の一つである清水徳川家の当主になったのです。
同時に慶喜は、これからの指導者には西欧の最新知識の習得が不可欠だとして、パリ万博終了後、3年から5年の長期留学を昭武に命じました。
しかし、パリ留学中に幕府は瓦解。その直後、兄の水戸藩主・慶篤が急死し、昭武はその後継者に指名されました。さらに、前将軍の弟がフランスにいることに深い懸念を持った新政府首脳は、昭武に帰国を命令。帰国した昭武は最後の水戸藩主となるのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第五章 箱館戦争秘話 榎本政権からの誘い
「われわれは薩摩の悪党の海岸を通過した」。フランスからの帰国の船上での、昭武のフランス語日記の一文です。彼にしては珍しい激情の言葉であり、その無念さがうかがわれます。
その時日本では、榎本武揚(たけあき)ら旧幕臣達が、東洋最強をうたわれた旧幕府海軍を率い北海道を占領、新政府軍に最後の抵抗を続けていました。昭武は、上海に寄港した時、榎本武揚からの使者を迎えます。榎本軍の指導者になって欲しいという要請でした。旧幕臣達の旗頭として、フランスに近い昭武を迎えれば、外交交渉上も優位に立てるという榎本のしたたかな計算もありました。
危険すぎるという理由でこの申し出は断られます。そして、帰国した昭武は、逆に新政府から榎本軍討伐を命じられるのです。歴史の矛盾と皮肉でした
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第六章 維新後の永き生活 終生の沈黙
慶喜は、将軍から一転して、天皇の敵「朝敵」とされました。明治元年2月、幕府の本拠地である江戸城を自ら退去した慶喜は上野、水戸、静岡と場所を移しながら謹慎生活を送ります。
明治2年9月には謹慎解除となりますが、それからの慶喜は、沈黙を守り、旧臣たちとの交流も制限し、政治とは関わらぬことが自らの使命であるがごとき生活を送ります。
しかし、維新後も彼の政治性はゼロになった訳ではありませんでした。周りからあらぬ誤解を受けてはならない。慶喜は政治からは遠い、数多くの趣味の世界に没入していきます。それは、自己の内的充実を求めると共に、その一つの道しか許されていないという厳しい生き方でもあったのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第七章 時代への凝視 アマチュアカメラマンへの変貌
幕末期から政治的な意味合いが感じられるような数多くの為政者のポートレイトを残している慶喜。明治26年頃からは、自らカメラを手に取り、連日のように写真撮影に打ち込むようになります。
アマチュアカメラマンへの変貌です。
明治30年、静岡を離れ、東京に転居してからも、彼の写真撮影は続きます。
論理的な構図による端正な写真。クローズアップの手法を使った芸術写真の先駆のような写真。江戸から東京へと変貌しつつあった都市の空気までをも感じさせるようなスナップ写真。彼の残した写真は数百枚にものぼります。
維新後、深い沈黙を貫いた彼の強固な意志は、変貌する時代への凝視となって、印画紙の上に焼き付けられたのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第八章 和解への遥かなる道のり 天皇との30年
公的な世界から離れ、趣味に没頭して生きる慶喜のもとへ、かつて彼を朝敵とした天皇から、和解への微妙なるサインが送られます。
明治維新の時に剥奪された官位が、明治5年の従四位(じゅしい)を皮切りに、正二位(しょうにい)、そして、同21年には将軍時代を上回る従一位(じゅいちい)にまで昇るのです。さらに、明治15年には慶喜の実質的な長男・厚が華族に列せられ、同29年には彼の9女経子(つねこ)が伏見宮家に嫁ぎ、慶喜は皇族の縁戚となります。いずれも慶喜の心事を思っての天皇からの礼遇であったと思われます。
明治30年末。ついに、慶喜は上京を決意します。天皇に謁見するためでした。謁見が行われたのは、明治31年3月。二人が和解をするためには、30年もの年月を必要としたのです。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ
第九章 悠久なる時の流れ 江戸の終焉
明治天皇との謁見後、慶喜は急速に名誉回復を遂げていきます。明治33年には天皇のそば近くに仕える特権を与えられた麝香間伺候(じゃこうのましこう)となり、同35年には五爵の最高位である公爵を授けられました。
これにより、慶喜の名誉回復は果たされたと言えるでしょう。一切の弁明をせず、沈黙を貫き通した男の生き方が明治国家に受け入れられたのです。
大正2年11月、慶喜は明治という時代を見届けて亡くなります。葬儀は上野寛永寺に特設された斎場で、実家の水戸徳川家にならい神式で行われました。
彼の死は、江戸という時代の終焉をも意味していたのでしょう。最後の将軍に相応しいその葬列は、あたかも過去から未来への悠久なる時の流れを象徴するかの様でした。
イラストレーション 黒鉄ヒロシ